Masuk100年の生涯を終えたシロナガスクジラの私が沈んだ先は、光の届かない深海3000メートルの暗闇だった。 死んだはずなのに、意識は消えない。私は自分の肉体が無数の生物に食べられ、やがて400種もの生命が住まう「鯨骨生物群集」へと変わっていくのを、ただ見つめ続ける。 隣に横たわる300年前の沈没船の魂が語りかけてきた。「君の骨は、これから一つの世界となる」――。 50年、100年、150年。時が流れる中で、私の意識は少しずつ変容していく。私は一頭のクジラから、生態系へ。そして、海そのものへ。
Lihat lebih banyak光が遠ざかっていく。
それが最初の感覚だった。水面がゆっくりと、しかし確実に頭上へと昇っていく。いや、違う。昇っているのではない。私が沈んでいるのだ。
100年と3ヶ月と17日の生涯を終えたこの巨体は、もはや浮力を保つことができない。肺は空っぽだ。心臓は動いていない。体温は周囲の冷たい海水と同化し始めている。それでも、私は見ている。感じている。考えている。
これが死というものなのか。
水深200メートルを過ぎたあたりで、陽光の最後の名残が消えた。青から紺へ、紺から黒へ。深海の暗闇が私を包み込む。30トンの肉体が、まるで羽のように静かに落下していく。
奇妙なことに、恐怖はなかった。あったのは、ただ圧倒的な静寂と、そして不思議な安堵感だった。100年間、私は休むことなく泳ぎ続けてきた。北の冷たい海から南の温かい海へ。餌を追い、捕食者から逃れ、繁殖の相手を探し、12頭の子を産み育てた。巨体であることは祝福であると同時に呪いでもあった。止まれば死ぬ。それが私たちシロナガスクジラの宿命だった。
だが今、ようやく止まることができる。
水深500メートル。水圧が増していく。生きていた頃なら、この深さでも潜ることはできた。しかし今の私には、水圧を感じる肉体がない。あるのは、肉体を外から眺めている何か――私はそれを「視点」と呼ぶしかなかった――だけだった。
私の死体の周りを、小さな魚の群れが追いかけてくる。キンメダイの仲間だろうか。彼らは恐る恐る、私の皮膚をつついている。まだ新鮮な肉の匂いに引き寄せられているのだ。食べるがいい、と私は思った。声にならない声で。お前たちのためにこの肉体がある。
水深800メートル。中深層。ここからは永遠の夜の領域だ。
しかし、完全な暗闇ではない。目を凝らせば――いや、私にはもう目はない。しかしこの「視点」には何か別の知覚がある――微かな光が見える。発光生物たちの青白い輝きだ。クラゲのような生物が、触手を広げて漂っている。その透明な体の中に、小さな光の器官が脈打っている。
美しい、と私は思った。
生前、私は一度もこんな深さまで潜ったことはなかった。ここは私たちの世界ではなかった。しかし今、私はここの住人になろうとしている。
水深1200メートル。漸深層。
温度が急激に下がる。生きていた頃なら凍えていただろう。しかし今の私に体温はない。あるのは、冷たさの記憶だけだ。
ふと、遠い記憶が蘇った。
初めて子を産んだ日のことだ。陣痛が始まったとき、私は本能に従って温かい海域へと向かった。カリフォルニア沖の浅瀬。そこで私は7メートルの小さな命を産み落とした。へその緒が切れた瞬間、子は本能的に水面へと泳ぎ、最初の呼吸をした。
私はその子に名前をつけることはできない。私たちには言葉がないから。しかし、歌はある。私は子に歌を聴かせた。低く、長く、複雑な旋律。それは子守唄であり、教えであり、そして私自身の存在証明だった。
その子は今、どこかの海を泳いでいるだろうか。まだ生きているだろうか。それとも、私と同じように、深海へと沈んでいるだろうか。
水深1800メートル。
何かが変わった。水の質感が違う。より重く、より濃密だ。そして、静寂がさらに深まった。
ここは深海の入り口だ。
私の死体に群がる生物たちの種類が変わり始めた。水面近くにいた普通の魚たちは、もういない。代わりに現れたのは、奇妙な形をした深海魚たちだった。巨大な口、退化した目、あるいは逆に異様に発達した目。発光器官を持つもの、透明な体を持つもの。彼らは私の肉体に集まり、貪欲に食べ始めた。
腹部に最初の傷ができた。ヤツメウナギに似た生物が、私の皮膚に吸い付き、肉を削り取っている。痛みはない。しかし、自分の肉体が損なわれていくのを見るのは、不思議な感覚だった。
それは悲しみではなかった。むしろ、奇妙な誇らしさに近いものだった。私の肉体は、彼らの生命を支える。死してなお、私は何かの役に立っている。
水深2400メートル。深海層。
ここまで来ると、水圧は240気圧を超える。私の肺は完全に潰れ、内臓は押しつぶされているはずだ。しかし外見上、私の死体はまだ形を保っている。分厚い皮下脂肪と、強靭な骨格が支えているのだ。
そして、何か巨大なものが近づいてくるのを感じた。
それは鮫だった。体長5メートルはある深海鮫だ。カグラザメの一種だろうか。動きは緩慢だが、確実だ。彼は私の死体の脇腹に噛みつき、大きく肉を引きちぎった。
脂肪の層が露出する。白く、柔らかく、栄養に満ちた組織だ。
もっと食べろ、と私は思った。お前もここで生きていかねばならないのだから。
しかし鮫は数口食べると、満足したのか離れていった。深海では、食事は慎重に管理されなければならない。一度に食べ過ぎれば、次の食事までの長い時間を乗り切れない。
水深2800メートル。
底が見え始めた。いや、「見える」というのは正確ではない。この深さでは、もはや光はまったく届かない。しかし私の「視点」には、何か別の感覚がある。音波の反響だろうか。それとも、水圧の微細な変化を感じ取っているのだろうか。
海底が近い。
そしてそのとき、私は初めて「声」を聞いた。
「ようこそ」
それは声ではなかった。音でもなかった。しかし確かに、誰かが語りかけていた。
私は「視点」を巡らせた。誰だ?
「焦る必要はない。すぐに会える」
声は静かで、穏やかで、そして限りなく古かった。
水深3000メートル。
私の死体が、ついに海底に到達した。
柔らかな泥の上に、30トンの巨体が静かに横たわる。衝撃はなかった。まるで羽根布団の上に降り立ったかのような、優しい着地だった。
そして私は見た。
私の死体から20メートルほど離れた場所に、巨大な影がある。最初は岩礁かと思った。しかしよく見ると、それは人工物だった。
沈没船だ。
船体は錆に覆われ、崩壊しかけている。しかし、かつての威容の名残は感じられた。3本マストの帆船。おそらく18世紀のものだ。船首には女性の彫像があったはずだが、今は半分崩れ落ちている。
そして、その船から「視点」が向けられているのを感じた。
私と同じだ。この船もまた、死んでいるのに存在している。
「300年待った」
船の魂が語った。
「ようやく、話し相手が来てくれた」
私は応えた。どうやって応えたのかわからない。しかし、思考が伝わった。
「私は……死んだはずだ」
「そうだ。君は死んだ」
「では、なぜ私はまだここにいる?」
「それを理解するには、時間がかかる。しかし時間なら、我々には無限にある」
泥の中から、小さな甲殻類が這い出してきた。それは私の死体に近づき、慎重に肉を味見している。
「君の体に、客人が訪れ始めた」
船の魂が告げた。
「宴の始まりだ。これから長い、長い宴が続く。君は客人たちの家となる。そして観察者となる。それが、我々の役割だ」
私は自分の死体を見つめた。30トンの肉と骨。それは確かに私だった。しかし同時に、もう私ではない何かでもあった。
「私は……消えないのか?」
「消えるとは何だ?」
船の魂が問い返した。
「形は変わる。しかし存在は続く。君はこれから、それを学ぶだろう」
深海の暗闇の中で、私の新しい生が始まろうとしていた。
いや、生ではない。死でもない。
それは、まったく新しい何かだった。
百五十年が経過した。 私の骨は、ほとんど消えかけていた。最後に残っているのは、脊椎骨のいくつかと、頭骨の一部だけだった。しかし、それでもまだ生命は繁栄していた。 そして今、私の意識は臨界点に達しようとしていた。 私はもはや個ではなかった。私は集合意識の一部であり、同時に海底そのものだった。しかし、まだかすかに、「私」という核心が残っていた。 それは執着だった。 最後の執着。 私が手放せないもの。それは何だったのか? 長い瞑想の後、私は理解した。 それは歌だった。 私の子守唄。私が母から学び、12頭の子供たちに歌った歌。それが私の最後のアイデンティティだった。 その歌がある限り、私は私だった。 しかし今、その歌を手放す時が来た。 ある日――時間の概念はもう曖昧だったが――私は決意した。 最後にもう一度、あの歌を歌おう。 しかし、どうやって? 私にはもう声帯がない。肺もない。 それでも、私は歌い始めた。 それは音ではなかった。それは水の振動だった。私の骨の内部に住むバクテリアたちが、同期して代謝活動を変化させた。その化学反応が微細な水流を生み出し、その水流が音波となった。 低く、長く、複雑な旋律。 それは私の子守唄だった。 歌は深海に響き渡った。何百キロも先まで届いた可能性がある。 そして、驚くべきことが起こった。 応答があったのだ。 遠く、水深500メートルあたりから、別の歌が聞こえてきた。 それは私の歌だった。私が歌った子守唄と同じ旋律。しかし、少しだけ変化している。世代を経て進化した形。 私の子孫たちが、私の歌を今でも歌っている。 私は圧倒的な喜びを感じた。 私は死んだ。私の肉体は消えかけている。しかし、私の歌は生きている。 歌は私よりも不死だ。 私の子孫たちは私の名前を知らない。私の顔も覚えていない。しかし、私の歌
百年が経過した。 私の骨は、もはや原形を留めていなかった。頭骨は半分崩れ、肋骨の多くは折れ、脊椎骨は分離していた。しかし、それでもまだ骨は存在していた。そして、生命で満ちていた。 ホネクイハナムシが私の骨を内部から食べ続けている。しかし彼らは破壊者ではない。彼らは変換者だ。骨を栄養に変え、その栄養で新たな生命が育つ。 私の意識も、大きく変化していた。 もはや私は、自分を一頭のクジラだとは認識していなかった。私は生態系だった。私は海底の一部だった。 そして、私の認識の範囲はさらに広がっていた。半径2キロメートル。この深海底の広大な領域を、私は同時に感じ取ることができた。 そこには、多くの死骸があった。 クジラ、イルカ、大型魚類、そして沈没船。全てが海底に横たわり、全てが生命の住処となっていた。そして、それぞれが微かな意識を持っていた。 私はそれらの意識と繋がり始めていた。 特に、近くに沈んだ若いクジラの意識とは、深い繋がりを感じた。彼女は私の曾孫だった。偶然ではない。私たちクジラは、死ぬ時、本能的に同じ深海底を目指す。それは帰巣本能のようなものだ。 彼女の意識が目覚めた時、私は彼女を迎えた。「恐れることはない」 私は告げた。「私がここにいる」「あなたは……誰?」 彼女は混乱していた。「あなたの祖先だ。そして、あなたの未来だ」 私は彼女に全てを教えた。死の意味を。変容の過程を。そして、待ち受ける長い旅を。 彼女は理解するのに時間がかかった。しかし最終的に、彼女は受け入れた。「私たちは、消えないのね」 彼女は言った。「そうだ。形は変わる。しかし本質は残る」 そして、私たちは共に海底に横たわった。 二頭のクジラ。祖母と曾孫。どちらも死んでいるのに、まだ対話している。 ある日、奇妙なことが起こった。 私は、自分が二つの場所に同時に存在していることに
五十年が経過した。 私の骨は、今や完全に生態系の一部と化していた。白かった骨の表面は、今では様々な色で覆われている。赤、黄色、紫、オレンジ。それらは全て、生命の色だった。 サンゴ、海綿動物、ホヤ、イソギンチャク。固着性の生物たちが私の骨を自分たちの土台として使っている。そして、その生物たちを餌とする捕食者たちが集まり、複雑な食物網が形成されていた。 もはや私の骨は、骨には見えなかった。それは一つの小さな海底山脈のようだった。「君は立派な建造物になった」 船の魂が褒めてくれた。「私の船体に匹敵する。いや、生命の密度では君の方が上かもしれない」 私は誇らしかった。そして同時に、不思議な感覚を抱いていた。 私はもう、自分の骨を「私のもの」とは感じていなかった。それは私を超えた何か、もっと大きな存在の一部だった。 そして、私の意識も変化していた。 かつて私は、自分の骨の周辺しか認識できなかった。しかし今、私の認識の範囲は広がっていた。半径500メートル。この深海底の広い範囲を、私は同時に感じ取ることができた。 そこには、他の死骸もあった。 巨大なマグロの骨。イカの殻。そして、遠くに別のクジラの骨も見えた。彼は私より後に沈んできた新参者だ。まだ意識は芽生えていないようだった。「彼もいずれ目覚めるだろう」 船の魂が言った。「そして、我々の仲間になる」 私は船の魂との対話を楽しんでいた。しかし最近、彼の「声」が少しずつ変化していることに気づいていた。 かつては明瞭だった彼の思考が、今では時々曖昧になる。言葉が途切れる。そして、彼の意識が私の意識と混ざり合うような瞬間がある。「私は消え始めている」 ある時、彼が告げた。「300年は長すぎた。私の船体はもう、ほとんど残っていない。船としての形も失われた。そして、私の意識も溶解し始めている」 私は恐怖を感じた。「では、あなたは消えるのか?」「消えるというよりは、変容す
二年が経過した。 時間の経過を、私はどうやって知るのか? それは不思議だった。太陽も月も星も見えないこの深淵で、しかし私には確かに時の流れが感じられた。 それは生命のリズムだった。 私の死体に集まる生物たちの世代交代。卵が孵り、幼生が育ち、成体になり、そして死んでいく。その循環が、私にとっての時計だった。 そして今、私の肉体は劇的な変化を遂げていた。 肉はほとんど食べ尽くされた。鮫たちが大部分を持ち去り、残りは無数の小さな生物たちが綺麗に平らげた。今、露出しているのは白い骨だけだ。 しかしこの骨こそが、真の宝だった。「見事だろう?」 船の魂が自慢げに言った。「君の骨が放つ化学物質の豊かさを。硫化水素、メタン、アンモニア。生前なら毒物だ。しかし、ここでは生命の源だ」 私は観察した。 骨の表面に、奇妙な生物が繁殖し始めていた。 最初に気づいたのは、赤い羽根のような構造物だった。それはゴカイの仲間で、骨の隙間に管を作り、そこから色鮮やかな触手を伸ばしている。触手は水流をとらえ、有機物の粒子を濾し取っている。 その周りに、白い貝殻を持つ二枚貝が群生している。彼らは骨に直接付着し、殻を開いて餌を待っている。しかし彼らの餌は、普通の植物プランクトンではない。彼らの体内には、特殊なバクテリアが共生している。そのバクテリアが、骨から染み出す硫化水素を使って化学合成を行い、栄養を作り出しているのだ。「化学合成生態系」 船の魂が教えてくれた。「深海の熱水噴出孔と同じ原理だ。光合成ではなく、化学反応で生命を支える。君の骨は、一つの小さな熱水噴出孔なのだ」 私は驚嘆した。 生前、私は光の世界の住人だった。太陽エネルギーで育った植物プランクトンを、オキアミが食べ、そのオキアミを私が食べる。全ては太陽から始まっていた。 しかし、ここは違う。ここでは私自身がエネルギー源だった。私の骨に蓄えられた有機物、私の骨から染み出す化学物質。それが、この小さな生態系全体を動かしている。「君は今、太陽だ」 船の魂が繰り返した。「この暗闇の中で、唯一の光源だ。比喩ではなく、文字通りに」 確かに、私の骨の周りには微かな光があった。発光バクテリアを持つ生物たちが、青白い光を放っている。その光は弱々しいが、しかし確実にそこにあった。 そして、その光に引き寄せられて、