深淵の子守唄 ~クジラが海になる日~

深淵の子守唄 ~クジラが海になる日~

last updateDernière mise à jour : 2025-11-26
Par:  佐薙真琴Complété
Langue: Japanese
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 100年の生涯を終えたシロナガスクジラの私が沈んだ先は、光の届かない深海3000メートルの暗闇だった。  死んだはずなのに、意識は消えない。私は自分の肉体が無数の生物に食べられ、やがて400種もの生命が住まう「鯨骨生物群集」へと変わっていくのを、ただ見つめ続ける。  隣に横たわる300年前の沈没船の魂が語りかけてきた。「君の骨は、これから一つの世界となる」――。  50年、100年、150年。時が流れる中で、私の意識は少しずつ変容していく。私は一頭のクジラから、生態系へ。そして、海そのものへ。

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Chapitre 1

第一章「最後の息」

 光が遠ざかっていく。

 それが最初の感覚だった。水面がゆっくりと、しかし確実に頭上へと昇っていく。いや、違う。昇っているのではない。私が沈んでいるのだ。

 100年と3ヶ月と17日の生涯を終えたこの巨体は、もはや浮力を保つことができない。肺は空っぽだ。心臓は動いていない。体温は周囲の冷たい海水と同化し始めている。それでも、私は見ている。感じている。考えている。

 これが死というものなのか。

 水深200メートルを過ぎたあたりで、陽光の最後の名残が消えた。青から紺へ、紺から黒へ。深海の暗闇が私を包み込む。30トンの肉体が、まるで羽のように静かに落下していく。

 奇妙なことに、恐怖はなかった。あったのは、ただ圧倒的な静寂と、そして不思議な安堵感だった。100年間、私は休むことなく泳ぎ続けてきた。北の冷たい海から南の温かい海へ。餌を追い、捕食者から逃れ、繁殖の相手を探し、12頭の子を産み育てた。巨体であることは祝福であると同時に呪いでもあった。止まれば死ぬ。それが私たちシロナガスクジラの宿命だった。

 だが今、ようやく止まることができる。

 水深500メートル。水圧が増していく。生きていた頃なら、この深さでも潜ることはできた。しかし今の私には、水圧を感じる肉体がない。あるのは、肉体を外から眺めている何か――私はそれを「視点」と呼ぶしかなかった――だけだった。

 私の死体の周りを、小さな魚の群れが追いかけてくる。キンメダイの仲間だろうか。彼らは恐る恐る、私の皮膚をつついている。まだ新鮮な肉の匂いに引き寄せられているのだ。食べるがいい、と私は思った。声にならない声で。お前たちのためにこの肉体がある。

 水深800メートル。中深層。ここからは永遠の夜の領域だ。

 しかし、完全な暗闇ではない。目を凝らせば――いや、私にはもう目はない。しかしこの「視点」には何か別の知覚がある――微かな光が見える。発光生物たちの青白い輝きだ。クラゲのような生物が、触手を広げて漂っている。その透明な体の中に、小さな光の器官が脈打っている。

 美しい、と私は思った。

 生前、私は一度もこんな深さまで潜ったことはなかった。ここは私たちの世界ではなかった。しかし今、私はここの住人になろうとしている。

 水深1200メートル。漸深層。

 温度が急激に下がる。生きていた頃なら凍えていただろう。しかし今の私に体温はない。あるのは、冷たさの記憶だけだ。

 ふと、遠い記憶が蘇った。

 初めて子を産んだ日のことだ。陣痛が始まったとき、私は本能に従って温かい海域へと向かった。カリフォルニア沖の浅瀬。そこで私は7メートルの小さな命を産み落とした。へその緒が切れた瞬間、子は本能的に水面へと泳ぎ、最初の呼吸をした。

 私はその子に名前をつけることはできない。私たちには言葉がないから。しかし、歌はある。私は子に歌を聴かせた。低く、長く、複雑な旋律。それは子守唄であり、教えであり、そして私自身の存在証明だった。

 その子は今、どこかの海を泳いでいるだろうか。まだ生きているだろうか。それとも、私と同じように、深海へと沈んでいるだろうか。

 水深1800メートル。

 何かが変わった。水の質感が違う。より重く、より濃密だ。そして、静寂がさらに深まった。

 ここは深海の入り口だ。

 私の死体に群がる生物たちの種類が変わり始めた。水面近くにいた普通の魚たちは、もういない。代わりに現れたのは、奇妙な形をした深海魚たちだった。巨大な口、退化した目、あるいは逆に異様に発達した目。発光器官を持つもの、透明な体を持つもの。彼らは私の肉体に集まり、貪欲に食べ始めた。

 腹部に最初の傷ができた。ヤツメウナギに似た生物が、私の皮膚に吸い付き、肉を削り取っている。痛みはない。しかし、自分の肉体が損なわれていくのを見るのは、不思議な感覚だった。

 それは悲しみではなかった。むしろ、奇妙な誇らしさに近いものだった。私の肉体は、彼らの生命を支える。死してなお、私は何かの役に立っている。

 水深2400メートル。深海層。

 ここまで来ると、水圧は240気圧を超える。私の肺は完全に潰れ、内臓は押しつぶされているはずだ。しかし外見上、私の死体はまだ形を保っている。分厚い皮下脂肪と、強靭な骨格が支えているのだ。

 そして、何か巨大なものが近づいてくるのを感じた。

 それは鮫だった。体長5メートルはある深海鮫だ。カグラザメの一種だろうか。動きは緩慢だが、確実だ。彼は私の死体の脇腹に噛みつき、大きく肉を引きちぎった。

 脂肪の層が露出する。白く、柔らかく、栄養に満ちた組織だ。

 もっと食べろ、と私は思った。お前もここで生きていかねばならないのだから。

 しかし鮫は数口食べると、満足したのか離れていった。深海では、食事は慎重に管理されなければならない。一度に食べ過ぎれば、次の食事までの長い時間を乗り切れない。

 水深2800メートル。

 底が見え始めた。いや、「見える」というのは正確ではない。この深さでは、もはや光はまったく届かない。しかし私の「視点」には、何か別の感覚がある。音波の反響だろうか。それとも、水圧の微細な変化を感じ取っているのだろうか。

 海底が近い。

 そしてそのとき、私は初めて「声」を聞いた。

「ようこそ」

 それは声ではなかった。音でもなかった。しかし確かに、誰かが語りかけていた。

 私は「視点」を巡らせた。誰だ?

「焦る必要はない。すぐに会える」

 声は静かで、穏やかで、そして限りなく古かった。

 水深3000メートル。

 私の死体が、ついに海底に到達した。

 柔らかな泥の上に、30トンの巨体が静かに横たわる。衝撃はなかった。まるで羽根布団の上に降り立ったかのような、優しい着地だった。

 そして私は見た。

 私の死体から20メートルほど離れた場所に、巨大な影がある。最初は岩礁かと思った。しかしよく見ると、それは人工物だった。

 沈没船だ。

 船体は錆に覆われ、崩壊しかけている。しかし、かつての威容の名残は感じられた。3本マストの帆船。おそらく18世紀のものだ。船首には女性の彫像があったはずだが、今は半分崩れ落ちている。

 そして、その船から「視点」が向けられているのを感じた。

 私と同じだ。この船もまた、死んでいるのに存在している。

「300年待った」

 船の魂が語った。

「ようやく、話し相手が来てくれた」

 私は応えた。どうやって応えたのかわからない。しかし、思考が伝わった。

「私は……死んだはずだ」

「そうだ。君は死んだ」

「では、なぜ私はまだここにいる?」

「それを理解するには、時間がかかる。しかし時間なら、我々には無限にある」

 泥の中から、小さな甲殻類が這い出してきた。それは私の死体に近づき、慎重に肉を味見している。

「君の体に、客人が訪れ始めた」

 船の魂が告げた。

「宴の始まりだ。これから長い、長い宴が続く。君は客人たちの家となる。そして観察者となる。それが、我々の役割だ」

 私は自分の死体を見つめた。30トンの肉と骨。それは確かに私だった。しかし同時に、もう私ではない何かでもあった。

「私は……消えないのか?」

「消えるとは何だ?」

 船の魂が問い返した。

「形は変わる。しかし存在は続く。君はこれから、それを学ぶだろう」

 深海の暗闇の中で、私の新しい生が始まろうとしていた。

 いや、生ではない。死でもない。

 それは、まったく新しい何かだった。

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第一章「最後の息」
 光が遠ざかっていく。 それが最初の感覚だった。水面がゆっくりと、しかし確実に頭上へと昇っていく。いや、違う。昇っているのではない。私が沈んでいるのだ。 100年と3ヶ月と17日の生涯を終えたこの巨体は、もはや浮力を保つことができない。肺は空っぽだ。心臓は動いていない。体温は周囲の冷たい海水と同化し始めている。それでも、私は見ている。感じている。考えている。 これが死というものなのか。 水深200メートルを過ぎたあたりで、陽光の最後の名残が消えた。青から紺へ、紺から黒へ。深海の暗闇が私を包み込む。30トンの肉体が、まるで羽のように静かに落下していく。 奇妙なことに、恐怖はなかった。あったのは、ただ圧倒的な静寂と、そして不思議な安堵感だった。100年間、私は休むことなく泳ぎ続けてきた。北の冷たい海から南の温かい海へ。餌を追い、捕食者から逃れ、繁殖の相手を探し、12頭の子を産み育てた。巨体であることは祝福であると同時に呪いでもあった。止まれば死ぬ。それが私たちシロナガスクジラの宿命だった。 だが今、ようやく止まることができる。 水深500メートル。水圧が増していく。生きていた頃なら、この深さでも潜ることはできた。しかし今の私には、水圧を感じる肉体がない。あるのは、肉体を外から眺めている何か――私はそれを「視点」と呼ぶしかなかった――だけだった。 私の死体の周りを、小さな魚の群れが追いかけてくる。キンメダイの仲間だろうか。彼らは恐る恐る、私の皮膚をつついている。まだ新鮮な肉の匂いに引き寄せられているのだ。食べるがいい、と私は思った。声にならない声で。お前たちのためにこの肉体がある。 水深800メートル。中深層。ここからは永遠の夜の領域だ。 しかし、完全な暗闇ではない。目を凝らせば――いや、私にはもう目はない。しかしこの「視点」には何か別の知覚がある――微かな光が見える。発光生物たちの青白い輝きだ。クラゲのような生物が、触手を広げて漂っている。その透明な体の中に、小さな光の器官が脈打っている。 美しい、と私は思った。 生前、私は一度もこんな深さまで潜ったことはなかった。ここは私たちの世界ではなかった。しかし今、私はここの住人になろうとしている。 水深1200メートル。漸深層。 温度が急激に下がる。生きていた頃なら凍えていただろう。しかし今の私に
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